精神疾患の有無にかかわらず、子供がなんらかの問題を抱えるときには、家族関係もこじれている場合が多いように思います。このとき親が陥ってしまいがちなのは、親自身の人生の歩みや人間性と、いま起きている子供の問題を別々に捉えてしまうことです。

もちろん親も過去を振り返り、「自分の子育てが間違っていたのかも」「もっとこうしておけば良かった」という思いは持っています。しかし親へのヒアリング(聞き取り)を行っていくと、子供の抱える問題が根深いほど、それを評する親の口調は厳しく、ときに他人事のようでさえあります。

「あの子には自己中心的なところがあって」

「社会の厳しさを分かっていないんです」

「親がどれだけ苦労しているかなんて、まったく意に介しません」

ところが依頼を受けて、親と本人の双方に深く関わるようになると、子供の振るまいと親の振るまいが実は瓜二つ、と感じることもしばしばです。

親自身がその事実に気づけないのは、それが、親にとって「対社会」「対人間」に関することだからです。たとえばこれが暴力(DV)やアルコール依存症などであれば、子供が同じ行動をするようになったときに「お父さん(お母さん)と同じだ」と気づきやすくもあります。「うちはこういう家系だから気をつけよう」と予防もしやすいでしょう。

しかし「対社会」「対人間」における構造なると、自分では客観視がしにくいため(そして往々にして「自分はうまくやっている」と考えがちなため)、仮に子供が同じ構造で生きていても、その認識がしにくいのです。

とくに、いま50代以降の親世代になると、「定年まで勤め上げる」「結婚して家庭を持つ」ということが当たり前の時代を生きてきています。この背景には、社会全体が経済的に成長期を迎えていたという時代背景があり、言葉を選ばずに言えば、「対社会」「対人間」のスキルが低かったとしても、人並みの生活を送ることができたわけです。

「対社会」「対人間」というのは、いろいろあるかと思いますが、分かりやすいところで言えばコミュニケーション能力であり、どのように他者と関わって生きていくかという生き方でもあります。また、働くことや金銭への価値観など、社会における自らの位置づけのことも含まれるでしょう。

ところがその子供世代となると、親の背中を見て「対社会」「対人間」のスキルをなぞってきたものの、社会情勢は厳しさを増し、より高度な「対社会」「対人間」スキルを求められる時代を生きています。「家族観」も同様で、もはや親の築いた「家族の構図」は、まったくもってお手本にはなりません。親の思い描く「家族観」「家族のコミュニケーション」が、本人の人生を妨げてしまうことさえあります。

完璧な人間、完璧な親などどこにもいませんし、親の「対社会」「対人間」スキルに足りないところがあるからといって、それがいけないと言うわけではありません。重要なことは、やはり親自身にその認識・自覚があるか、ということです。なぜなら親に自覚がないと、子供の問題に対してハイレベルな解決を求めたり、あるいは他人事のような態度をとってしまったりするからです。

だからこそ、子供が問題を抱えたときほど、親自身が生き方を振り返り、自分を客観視してみることが必要です。日頃、「なんであの子はこんなこともできないのだろう」と否定している子供の欠点の中に、自分との共通項が見つかるはずです。

その振り返りなくしては、仮に子供を思っての愛情に基づく言動をしたとしても、子供にとっては重荷でしかなく、心をより頑なに閉ざすことにもつながります。

そしてこの弊害は、親子の関係をいっそう複雑にもします。表面的には、親は子供を否定し、不満を述べます。子供も同様で、親を否定し、不満を言い募ります。しかしその一方で、無自覚ながら「対社会」「対人間」の考え方に共通項を持っているため、妙なところで価値観が合致してしまうのです

「親子なんだから当然じゃないか」といわれるかもしれませんが、合致する価値観ほど、本人が社会参加できない理由に通じるものであり、子供の自立を妨げている要因の一つである場合が多いです。これは、問題を抱える子供と親が共依存の関係に陥ってしまう背景でもあると思います。

弊社が携わった子供たちの大半は、「親もおかしいのに、なぜ自分だけがこれほど苦しまなければならないのか」「精神科に入院すべきは、親ではないか」と言います。この言葉は、親自身の生き様と矛盾する要求や𠮟責を与えられてきた子供たちの、心の叫びでもあります。